山本寛斎と伊勢谷友介の共演での様子は?仲は良かった?病床での会話は? 

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山本寛斎さんと伊勢谷友介さんの会話の記録が残されていたので、まとめてみました。

緊張感があり、尊敬があり、愛着があるという、2人の異質な兄弟関係が見えてきます。

そこで今回は「山本寛斎と伊勢谷友介の共演での様子は?仲は良かった?病床での会話は?」について検証していきます。

男と男、雄と雄。

1人の奔放な父を持ってしまった2人の男の緊張感ある関係性が見えてきます。

父についての詳細はこちらでどうぞ。

山本寛斎と伊勢谷友介は兄弟で共通のお父さんはどんな人?お母さんは?
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山本寛斎と伊勢谷友介の共演での様子は?

2012年10月7日の番組「アシタスイッチ」での2人の対談です

「恋多き父の遺伝子 伊勢谷が受け継いでいる」(山本)

何人もの女性と結婚と離婚を繰り返した父について、山本は、自身はそれが反面教師になったという。人を愛するということは、年単位のようなスパンでは語れないとする山本は、恋多き男といわれる伊勢谷に、そのプレイボーイっぷりが「超一級」と斬りこむ。

そして山本は、伊勢谷が恋愛を繰り返す理由は、3歳で父と別れ、母の手ひとつで育てられたことにあるのではないかと分析。「無意識のうちに自分の女性のイメージが、母と重なるのではないか」という山本の質問に対して、伊勢谷は「付き合う女性に母を求めている気はない」と否定するが、30歳を過ぎ、自分のなかで認識してきた自分の問題は、父からの何かにあるのではないかと思い始めてきたとき、初めて父親の墓参りに行ったことを明かす。

人のために生きて自分が生かされる」(伊勢谷)

伊勢谷は、墓参りに行った理由について「(父が)人に望まれることをあまりしてこなかったということを母からきいて興味をもった」と説明する。何か悪い部分を受け継いでいるとすれば、父親の生き方に自身が向き合うことで、そうなってはいけない、ならないようにしたいという覚悟だ。

そして、父親の育ちについて、両親が忙しく愛情が足りなかったことに触れ、「自分は母一人の手で育てられたが、祖父母も一緒に住んで、たくさんの愛情をもらった」と振り返る。「自分がなりたい自分を想像して、自分を律してっていうのが自分の生きる道かなと」(伊勢谷)

俳優としての才能だけでなく、映画監督、実業家、などマルチに活動する伊勢谷だが、ファッション一本でやってきた山本にしてみれば、「勝負の場が低すぎる」。山本は伊勢谷に俳優一本で何故やらないのかと迫るが、“人類が地球に生き残るためのプロジェクト”リバースプロジェクトの代表を務める伊勢谷は、今いちばんのモチベーションは「社会貢献」なのだという。

自分のために生きていない。人のために生きて、自分が生きることができる」という伊勢谷は、言葉にこそしないが、人に望まれて生きなかった父の分まで生きようとしているかのようでもある。

番組では、その他仕事に対する生き方について、山本が伊勢谷に檄を飛ばす一幕も。山本の兄としての想い、伊勢谷の“山本とは出発点も目指すものも違う”という想い――。        (NEWSポストセブン)

2人とも、お父さんを反面教師にして生きていることが感じられます。

お父さんとは、子どもにとって一番身近な社会でもありますから、良くも悪くも基準になりやすいですね。

ましてや強烈な個性を持っていたお父さんですから、とても鮮明で有能な反面教師だったと言えますね。

もちろん、多くの心の傷を残しながら教えを残した、やっかいな教師だったんでしょうけど。

そして寛斎さんが「勝負の場が低すぎる」と言ったことが印象的でした。

これは同じ表現者として以上に、同じ血が流れる兄としての発言ですね。

鋭く、厳しく、温かいです。

キレイ事で対談を終わらせる気なんて、さらさらない。

男同士、勝負しに行ってますね。

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山本寛斎と伊勢谷友介の仲は良かった?

上の対談では、時には渇を入れるなど、師匠と弟子の関係に近いと感じます。

仲が良いというよりも、信頼しあっていたのではないでしょうか。

お互い、父である「山本一男」さんの濃い血が流れていて、そこはどうしようもなくて、とにかく自分の世界で大暴れしている漢(おとこ)として。

そして下の文章は、2012年に山本寛斎さんがアメブロで書いた、伊勢谷さんについての想いです。

「弟、伊勢谷友介」と断言してるところがいいですね。

「あいつ、俺の弟なんだよ。かっこいいだろ?最近、ちょっといい役者になってきたんだよ」って感じで、ちょっと誇らしげで、いいなぁと思います。

出展:アメブロ

出展:アメブロ

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山本寛斎と伊勢谷友介の病床での会話は?

伊勢谷友介さんにとって、山本寛斎さんは「兄からメンター(師匠)に変わった」と言ってますが、父の記憶がない伊勢谷さんにとっては半分父親だったなと。

年齢的にも33歳差ですね。

実際は同じ父から異母兄弟として生まれた長男と末っ子だったようです。

この写真の寛斎さん、とんがってますねぇ。

そして伊勢谷さんの文章、率直で、ごまかしがなく、骨太です。

「兄になりたかった」なんて、最高の賛辞です。

「命を使い切る人生」なんて、死に際に言われてみたいですね。

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兄、山本寛斎が永眠しました。 写真は僕が大好きな寛斎さんの写真。 寛斎さんも僕も、共に27歳の頃の写真をコラージュしました。 1971年、独立して株式会社「やまもと寛斎」を設立した頃。 僕は2003年、初監督作品「カクト」の公開を終えた頃。 寛斎さんが病床で、最後に僕に聞いた事。「俺の生き方、どうだ?」僕は慌てて「凄いです。世界のファッションに早くから挑戦して、イベントの演出家として大きなショーを現実にしたことも。」と。 寛斎さんは満足気に小さく頷いた。。。 僕が物心ついた頃には、寛斎さんはファッションの分野で世界を相手に正に『歌舞いて』いた。そんな兄の存在は高校生の僕にとってメンターに変わった。NHK「わたしはあきらめない」で山本寛斎は新たな挑戦であったアートイベントの演出家として、諦めない挑戦の姿勢を、僕に強烈に印象づけた。VHSのテープを何度も観た。 『世界基準でやりたい様にやる』 寛斎さんのその姿勢は、当時「二足の草鞋」と揶揄されながらもREBIRTH PROJECTと、俳優業を兼業する当時の僕のメンタリティを支えてくれた。 大学生の頃、僕は『兄になりたかったんだ』と思う。 勿論寛斎さんは知らないし、そんな事を言う気もない。 寛斎さん自身だって、僕と同じ様に、自分に流れる山本家の激しい血筋を社会で沸騰させる事で精一杯だっただろうから。だから、背中を見てた。父と過ごした記憶のない僕には、それが社会を生きる大人の姿だった。 その激しさの反面、寛斎さんは若い頃から家族を持ち、あまりにも優しく、おおらかに家族を支えてくれたと、娘の未来ちゃんが話してくれた。  寛斎さんの弟によると、私達の父は「とんでもない人」だったらしい。その反面教師だったと言っていた。 生前寛斎さんは「葬式は明るく」「墓はいらない」と言っていたらしい。兄弟なんだな、そんなところも僕と同じ考えだ。 やりきる人生、命を使い切る人生。 最後までカッコ良かったです。 寛斎さんの死は、これからの自分に新たに喝を入れられました。 あなたの血は、僕の中に生きてます。『世界基準でやりたい様にやる』あなたに負けず、僕は『すべての人が容易く生きれる社会』を現実にしたいです。 まだまだ僕のインスピレーションの源でいてください。 ありがとうございました。 伊㔟谷友介

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まとめ

今回は「山本寛斎と伊勢谷友介の共演での様子は?仲は良かった?病床での会話は?」について検証してきました。

2人の交流で記録が残っているものは、以上だと思うのですが、他にあったら更新していきますね。

残された伊勢谷友介さんに注目していきたいです。

伊勢谷友介さんが山本寛斎さんから受け継いだもの、お父さんから受け継ぐことを拒否したもの、自分で見つけたもの、それら全ての結晶としての伊勢谷友介さんについて、とても興味がわきました。

恋愛についてもです。

森星(もり・ひかり)さんとの恋愛を見届けていきたいと思います。

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